野口英世の金銭感覚
新しい5000円札と1000円札のモデルは樋口一葉と野口英世です。
文化的な偉業は周知のことですが、赤貧に苦しんだ樋口一葉と、お金にはまるでルーズだった野口英世です。
お金の肖像に選ばれたことを、ご本人たちは苦笑いしているようです。
●上 京
(日本銀行のHPより)
明治29年(1896)、野口英世(当時は清作)は、東京で勉強することにしました。 恩師の小林先生は餞別として10円渡しました。 小林先生の俸給は12円でしたからその多さが分かります。
郷里を出たときの所持金は40円でしたが、旅費・下宿代・その他で2ケ月で無一文となりました。
偶然英世の才能を認めた歯科医・血脇守之助さんが、学資として月15円を出してくれることになりました。 ところがこのころから、悪い遊びを覚え、だいぶ放蕩した模様です。 血脇さんもそれに気づき、5円ずつ3回に分けて渡すようにしたそうです。
●医師になって
明治30年(1897)、医師開業試験に合格し、順天堂病院助手になりました。食事つきですが、給料は月にたった2円(翌月から3円)です。他にアルバイトもしましたが、お金にはかなり不自由したようです。 郷里の友人、八子弥寿平(やこやすへい)さんにたびたび無心しています。
■中々こまりがちに御座候。若し茲に、五拾円の金子あらば、実に満足の次第に御座候。[明治30.12.31]
■今回非常に、困難いたし候間、甚だ申兼候へ共○的二拾円程是非御都合なし被下度奉懇願候。[31.3.20]
■小生儀現に借債有之面目あしく候間、金融必迫の節柄乍恐入、なるべくはやく二拾枚ばかり是非共奉願上候。[31.6.13]
返した気配はなく、かなりの不義理を重ねています。 お金を借りることの名人で、返さなくても何とも思わなかったようです。
明治31年、北里柴三郎の伝染病研究所見習助手になり、月12円(後13円、15円)、さらに、明治32年、横浜海港検疫所検疫官補となり、月俸35円です。 遊びはますます盛んになりました。
このころ、坪内逍遥の『当世書生気質』という本を知りました。「野々口精作」という田舎出の医学生が遊里遊びに堕落するというストーリです。 「野口清作」にとっては、まるで自分をモデルにしたような内容に驚き、これが元で「野口清作」を「英世」に改名しました。
●清にて
明治32年(1899)、清国でペストが発生し、英世も国際防疫班に加わりました。
清国への支度金として受け取った96円を出発前に使い果たし、血脇さんに泣き付きました。 血脇さんは、新婚の奥さんの着物を質に入れて英世に5円与えたそうです。
清国奉天州の牛荘(ニュウチャン)では、月俸200両(テール)で半年間、さらにロシア政府の要請で月俸300両で3ケ月間働きました。 合計で2000両(=2600円相当)は稼いだはずなのですが、毎夜城外の歓楽街で遊び、また悪い友人に騙し取られたりして、結局また無一文で帰国しました。
【参考】このころの外国為替レート : 1両(テール)=約1.3円
●渡 米
明治33年(1900)、渡米の費用にと小林家から200円、斎藤家から帰国したら娘さんと結婚する約束で結納金として300円贈られました。 (結婚する気は無かったようです。 悪く言うと結婚詐欺です。)
ところが、横浜の大料亭「神風楼」で友人たちと別離の宴を大々的に行い、この大金が残金30円になってしまいました。 ビリヤードですったとも言われています。 まだ船の切符も買っていませんでした。
また泣き付かれた血脇さんは、あきれながらも高利貸しから300円借りて、野口に渡しました。 ただし、切符や衣類は現物で渡したそうです。 (血脇さんは後に、「男に惚れてはならぬ」と、息子に語ったそうです。)
英世の渡米予算
収 入
支 出
英世の残金
30円
横浜からシアトルまでの三等船賃
18ポンド(180円)
血脇さんの借金
300円
シアトルからフィラデルフィアまでの汽車賃
9ポンド(90円)
アメリカ入国審査の際の最低所持金
30ドル(60円)
計
330円
計
330円
旅費は『旅行案内(明治33年11月号)』による
●アメリカ 〜 フィラデルフィア・ペンシルバニア大学
1900年発行1ドル銀貨
26.8g 37.8mm
フィラデルフィアに着いたとき、所持金は23ドルしかありませんでした。
フレキスナー教授に頼み込み、なんとか私設助手にしてもらいました、月俸8ドルです。 これだけでは食べるのも大変で、また日本から借金をします。
為替レートは1ドル=2円ですが、当時の国力の差を考えると、感覚的には1ドル=1円でしょうか。
努力と才能が認められると、明治34年(1901)ペンシルバニア大学研究助手(月25ドル)、翌年同病理学助手(月50ドル)と待遇も良くなりました。 ところが、お金にルーズなことは、アメリカでも同様でした。
50ドルの給料を、もらった晩に36ドル使ったこともありました。 たびたび友人たちから借金をしています。 ”野口に金を貸すな”、研究者仲間でたびたび交わされていた言葉です。
【参考】1901年のアメリカ都市部の妻帯俸給生活者の平均賃金は、年651ドル(月54ドル)。 (石坂昭雄他「商業史」有斐閣双書 より)
●アメリカ 〜 ニューヨーク・ロックフェラー研究所
1904年発行1セント銅貨
3.0g 19.0mm
(現在でも大きさが変わっていないことは驚異です)
明治37年(1904)、ロックフェラー研究所の、アシスタント(一等助手)として採用されました。年俸1800ドルです。これ以降業績とともに、待遇もどんどん上りました。 明治40年アソシエート、明治42年アソシエート・メンバー(準正員)、年俸3000ドル(?)。
大正3年(1914)には最高位のメンバー(正員)になりました。 年俸5000ドル、円にすると1万円です。 当時の日本の総理大臣の年俸1万2千円と比べると、その破格の待遇が分かります。
【参考】日本の高級官僚の年俸 :
総理大臣 12000円、陸軍大将 6000円、東京府知事 3600円、国会議員 2000円
●一時帰国
1920年発行50セント銀貨
(ピルグリムファーザーズ300年記念銀貨)
12.5g 30.5mm
大正4年(1915)、帝国学士院から恩賜賞を授与されることになりました。 これを期に、一時帰国することにしました。 ところが(こんなに高額の給料を貰っていながら)、帰国費用がありません。 友人の星一製薬会社社長に電報を打ちます(作家の星新一の父です)。
「ハハミタシ、ニホンニカエル、カネオクレ」 星は、7000円(5000円?)送金しました。
16年ぶりに郷里に錦を飾った英世に対し、これまでの不義理さに、顔を背けた家もあったそうです。 恩賜賞の賞金1000円は、郷里の恩師やお世話になった人々への礼金に使いました。 (お金を返したのはこれが初めてか?)
●遺 産
昭和3年(1928)5月21日、黄金海岸のアクラにて黄熱病で没しました。享年51歳でした。
死後、妻のメリーは財産を処分しました。
ニューヨーク州の山荘 6430ドル
生命保険(前借金を除く) 800ドル
GE社の株券 5975ドル
さすがに40を過ぎた頃からは、貯蓄もしたようみえます。
メリーは、このうち3000ドルを、姉の野口イヌと小林家に送金したそうです。
参考文献 :
飯島信子、「野口英世の妻」、新人物往来社、1992
北篤、「正伝・野口英世」、毎日新聞社、2003
渡辺淳一、「遠き落日」、角川文庫、1982
(地図は、「新制最近世界地図」、三省堂、昭和8 を利用しました)
2004.5.23