三好氏の城


  河内・飯盛山城   

西北より望む飯盛山城
  三好長慶が一時本拠を構えた「飯盛山城」を訪れる。
  案内人は、実兄である。兄は、この城にはたびたび訪れており、プロ級に詳しい。

山頂の本郭
楠正行像
  山頂には尾根伝いに5、6つの郭が連なっており、北から「御体塚丸」、「三本松丸」、「本郭」、「高櫓郭」、「千畳敷郭」などの名前がついている。

石垣(1)
石垣(2)
  この時代の城にしては珍しく、何箇所かに石垣がある。
  高さはせいぜい2メートル、長さも長いところで10メートルくらいのものだが、歩いていたらほんとにあちこちにある。決してきれいな石垣ではないが、戦国武者たちの心が伝わってくる。

西方の腰郭に通ずる土橋
主郭間のS字型土橋
  山頂の郭間も土橋でつながっているが、山麓につながる小さな郭間も土橋でつながれていることが目に付く。

南虎口
南丸の土塁
  城への上り道は10箇所ほどありそうである。
  それぞれの虎口には、さまざまな工夫がされているが、最南端の千畳敷郭に通ずる虎口の仕掛けが最もすばらしい。進路は屈曲し、その両側に、横矢係りの土塁が設けられている。

  2008年10月13日

 三好氏メモ
  天文 元年(1532) 細川晴元、三好元長を自害させる。三好氏は一時衰退。
  天文 8年(1539) 三好長慶、畿内に進出し、摂津越水城を居城とする。
  天文22年(1553) 長慶芥川山城に移る。
  このころ、三好長慶、弟の三好義賢(阿波)、十河一存(讃岐)、安宅冬康(淡路)らと協力して近畿・四国に勢力を拡げる。
  天文19年(1550) 足利義輝を近江に追う。
  永禄 3年(1560) 長慶居城を飯盛山城に移す。
  永禄 7年(1564) 三好長慶41歳にて死。弟や嫡男も先立っていたため、甥の義継が跡をつぐ。
  永禄 8年(1565) 三好義継・松永久秀、将軍義輝を殺す。   永禄11年(1568) 織田信長、足利義昭と奉じて入京。
  天正 元年(1573) 義継、足利義昭とともに織田信長と戦うが、敗れて河内若江城で自刃。

  源頼義─4代略─小笠原長清─8代略─三好義長─3代略┬元長┬長慶─義継
         (阿波国三好・            │  ├【阿波】義賢
          美馬郡守護)            │  ├【淡路】安宅冬康
                            │  └【讃岐】十河一存─存保
                            └康長

  摂津・芥川山城   

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  今年も兄の案内で三好氏の居城、芥川山城を訪れる。
  城は、高槻市街の北5キロほどにある小高い山「三好山」に作られている。
  周りを田畑で囲まれた小高い山である。

  城域は東西に連なる。
  全体がいのししよけの柵で囲まれており、ところどころ、人の出入り口がある。出入り口を通るときは、扉のヒモをほどき、また結んでおく。幸いにもいのししには出会わなかったが、城域の大部分はいのししの生活圏のようである。
  
本丸(右側)
本丸からの眺め
  東西に連なるように、大きな郭が数箇所ある。
  本丸は西端の最も高いところにあり、もっとも広いようだ。手入れする人たちがいるのだろうか、ほどよく柴が刈られている。
  本丸からは南西に大阪平野が望める。
  
竪土塁
S字土橋
  この城の中で最も注目すべきなのは「竪土塁」である。山城に「竪堀」はつきものだが、「竪土塁」を見るのは初めてだ。
  東側の郭の武者走り(腰郭?)から真南にまっすぐのびている。高さは1メートルくらい、長さは20メートルくらいか?
  土塁の左右に顕著な差がないところを見ると、竪堀と同じ役割を果たしていたのであろう。
  東側の郭と中央部分の間は深く切り取られ、細いS字形の土橋で繋がれている。

大手口の石垣
東郭の虎口
  大手道は城の中央部の谷筋である。
  大手門があったとおぼしき所に、巨大な石垣がある。まるで砂防ダムのように大きく堂々としている。
  写真撮影のためには、立場が悪く、また暗くて、全体像が撮りにくいのが残念である。

  2009年10月16日

 芥川山城メモ  (城下の案内板より)
  永正17年(1520) この頃、原地区南の山塊に新城(芥川山城か)を築く。
  大永 3年(1523) 能勢氏主催の連歌の会が開かれる。
  天文 2年(1533) 細川晴元入城。天文5年まで滞在。
  天文10年(1541) この頃、芥川山城をめぐる攻防激化。奈佐原も兵火を受ける。晴元、しばしば滞在する。
  天文22年(1553) 三好長慶、芥川山城に入城。
  弘治 2年(1556) 芥川山城出火(『多聞院日記』)
  弘治 3年(1557) 長慶、里村紹巴らと連歌の会を開く。
  永禄 2年(1559) 郡家惣中宛の水論採決状を出す。
  永禄 3年(1560) 長慶、飯森城に移る。三好義興が城主になる。
  永禄 6年(1563) 義興没。
  永禄11年(1568) 織田信長の入城。和田惟政が城主に。

  阿波・脇城   

中央の山が本丸
城下の「うだつの町並み」
  脇城を訪れた。三好長慶の築城と伝えられるが、蜂須賀家の筆頭家老稲田氏の城として有名である。
  城下には「うだつの町並み」の街道がある。
  城はこの街道の北側の台地にある。小さな神社の裏を登って行ったが、どこがお城か分からない。
  人に聞こうにもまったく人影がない。数件ある農家も無人である。
  結局後で調べたら、我々は三の丸あたりをうろついていたようである。

  2008年10月16日

 脇城メモ
  天文 2年(1533) 三好長慶、脇城を築く。
  弘治 2年(1556) 武田信玄の弟信顕が、長慶の計らいで脇城主となる。
  天正 7年(1579) 脇城外の戦い。勝瑞の三好方と土佐の長宗我部方が、脇・岩倉城をめぐって戦う。
  天正10年(1582) 長宗我部元親、脇城の武田信顕を落し、長宗我部親吉を城主とする。
  天正13年(1585) 蜂須賀家政が阿波領主となり、稲田種元を城代とする。
  元和 元年(1615) 一国一城の令により、廃城となる。

  阿波・勝瑞城   

本丸の堀
本丸内部。右奥に土塁跡
  阿波勝瑞城は、戦国の200年間、細川・三好氏の本拠地として、阿波の中心だったところである。
  現在は「見性寺」の跡地で、周囲の水堀の一部が残されている。

  2008年10月16日

 勝瑞城メモ
  貞治 2年(1363) 阿波守護細川詮春が勝瑞城を築いて秋月より移る。これより阿波細川氏の本拠地となる。
  大永 6年(1531) 勝瑞城主細川持隆、三好元長とともに京都に攻め上る。このころ、阿波勢は盛んに近畿で戦う。
  天文21年(1552) 三好義賢、細川持隆を自害させ、細川氏の時代は終わる。
  天正10年(1582) 長宗我部元親、勝瑞城を落す。城主の十河存保は讃岐に逃れ、城は廃城となる。